本|AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

2018年の本。

この章で詳しくご説明してきたように、AIはいくらそれが複雑になって、現状より遥かに優れたディープラーニングによるソフトウェアが搭載されても、所詮、コンピューターに過ぎません。コンピューターは計算機ですから、できることは計算だけです。計算するということは、認識や事象を数式に置き換えるということです。

つまり、「真の意味でのAI」が人間と同等の知能を得るには、私たちの脳が、意識無意識を問わず認識していることをすべて計算可能な数式に置き換えることができる、ということを意味します。しかし、今のところ、数学で数式に置き換えることができるのは、論理的に言えること、統計的に言えること、確率的に言えることの3つだけです。そして、私たちの認識を、すべて論理、統計、確率に還元することはできません。

引用:AI vs. 教科書が読めない子どもたち 164p

AI技術の発展で仕事がなくなる。

シンギュラリティは近い。

世間に溢れる言説。

確かに、AI技術の発展でなくなる仕事はある。ホワイトカラーを中心に。けど、シンギュラリティは来ない。

けど、今ある仕事の多くが、AI技術でまかなえるようになる。

そのときに備えて、人はどうしておくべきか。

が、著者の観点から書かれてた本。

前半のシンギュラリティは来ない、の理由に、著者がプロジェクトで行なった実験、研究の数々が紹介されてた。そういう理由なのねー、なるほどー、と理解。世界はどこでなにが生まれるかわからないけど、現状が前提だとそういうことね、っていう。AI技術がどう作られて行っているのか、知りたい人には面白い。

AIが音楽を作ったとか、綺麗な絵画を描いた、とかそんな話もあるけれど、そこに対する著者の見方も「ふーむ、なるほどー」と一理ありな感覚。

もう少し詳しく説明すると、AIの弱点は、万個教えられてようやく一を学ぶこと、応用が利かないこと、柔軟性がないこと、決められた(限定された)フレーム(枠組み)の中でしか計算処理ができないことなどです。繰り返し述べてきたとおり、AIには「意味がわからない」ということです。ですから、その反対の、一を聞いて十を知る能力や応用力、柔軟性、フレームに囚われない発想力などを備えていれば、AI恐るるに足らず、ということになります。

では、現代社会に生きる私たちの多くは、AIには肩代わりできない種類の仕事を不足なくうまくやっていけるだけの読解力や常識、あるいは柔軟性や発想力を十分に備えているでしょうか。

引用:AI vs. 教科書が読めない子どもたち 171p-172p

簡単に言えば、備えられてないんだよなぁー、ってこと。そして、その鍵となるのは「読解力」だとのこと。一般論で語ってるのではなく、全国25000人の基礎読解力を調査。どんな問題なのか、それにどの程度できてできないのかが詳しく書かれてる。もちろん「読解力」が何を指すかもわかりやすいように書かれてる。

面白かった箇所2つ。

「偏差値の高い高校に入ると基礎読解力が上がる」か「基礎読解力が高いと偏差値の高い高校に入れる」のどちらかです。前者はあり得ません。

引用:AI vs. 教科書が読めない子どもたち 219p

その事実を確認した私は、「御三家」と呼ばれるような超有名私立中高一貫校の教育方針は、教育改革をする上でなんの参考にもならないという結論に達しました。理由がわかりますか?そのような学校では、12歳の段階で、公立神学校の高校3年生程度の読解能力値がある生徒を入試でふるいにかけています。

引用:AI vs. 教科書が読めない子どもたち 221p

薄々そう思ってたけど、こうやって調査研究の結果出てくると、だよねーって思う。

つまり、教えてもらうだけではなくて、自分でテーマを決めたり自分で調べたりして学習したり、グループで話し合ったり議論したり、ボランティアや職業体験に参加したりというのがアクティブ・ラーニングだということです。

なんだかとても魅力的に聞こえます。でも、ちょっと待ってください。教科書に書いてあることができない学生が、どのようにすれば自ら調べることができるのでしょうか。自分の考えを論理的に説明したり、相手の意見を正確に理解したり、推論したりできない学生が、どうすれば友人と議論することができるのでしょうか。「推論」や「イメージ同定」などの高度な読解力の問題の正答率が少なくとも7割ぐらい超えないと、アクティブ・ラーニングは無理だろうと私は考えています。

引用:AI vs. 教科書が読めない子どもたち 235p

ごもっともなんだよなぁ。なんでもベースにあるものがしっかりしていないと、ですよね。アクティブ・ラーニング自体は良くも悪くもないし、旧来の知識伝達型の一方的な授業ではつけられない力を人につけさせることができるというのはその通りだけど、著者の指摘するそういうことを考えずに「アクティブラーニングだー!」って時代の流れに乗ってるだけじゃね。