映画|パプリカ

つけたら他人の夢の中に潜り込むことができるDCミニという開発中の装置が盗まれ、それを取り戻そうとするのがストーリーの軸でありながら、個人や社会の根元欲求にもつながる部分について考えさせられる作品。

90分の映画からこぼれ落ちるほどの情報量の詰まった映画だった。

この映画を論理的に解釈しようとしてはいけない

あらすじやなんかは他の方が丁寧に書いてくださっている。

ja.wikipedia.org

eiga-watch.com

 

人が就寝中にみる夢がテーマ。

夢ってほんと支離滅裂。次の瞬間には、いる場所が変わったり、今話していた人も次の言葉のときには別人になっていたり。

この映画は、前提説明もほとんどなく、とくに後半では夢の中から現実に戻れないループが繰り返されたり、全ての人の夢が混ざった世界観になっているから、もうカオス。

冒頭、吉川所長が意識を乗っ取られて理事長に啖呵をきるシーン。意味を解釈しようとすると、言葉でタコ殴りにあった気分にすらなれる。でも、どこか伝えたいことが伝わらなくもない。もう、この言葉の支離滅裂さは、まさに夢の世界に連れていかれた精神が表現されていると思う。

五人官女だってです。蛙たちの笛や太鼓に合わせて回収中の不燃ゴミ吹き出してくる様は圧巻で、まるでコンピュータグラフィックスなんだそれが!総天然色の青春グラフティや一億総プチブルを私が許さないことぐらいオセアニアじゃ常識なんだよ!今こそ青空に向かって凱旋だ!!絢爛たる紙吹雪は鳥居をくぐり周波数を同じくするポストと冷蔵庫は先鋒を司れ!賞味期限を気にするプライド輩は花電車の進む道にさながら染みとなって憚ることはない!思い知るがいい。三角定規たちの肝臓を!さぁーーー、この祭典こそ、内なる小学3年生が決めた遥かなる望遠カメラ。それ、集まれ、私こそが、お代官様!!ふはぁーーーーはっはっはっはっは・・・・

 

テーマがいくつも含まれていながら、そこに絡む個別シーンに伏線がいっぱい

あたかも僕の好きな多重録音された音楽のように、何度ふれても飽きない発見があった。

例えば、先ほど紹介した吉川所長がのっとられたシーンのセリフ内にある

絢爛たる紙吹雪は鳥居をくぐり周波数を同じくするポストと冷蔵庫は先鋒を司れ!

だけど、それ以降何度も出てくるパレードの先頭をきって歩いているのは、ポストと冷蔵庫だったりして。

あるいは、映画を観た人ならかろうじていっていることを理解してもらえるかなぁ、、、という具合で、説明がちょっと上手にできないけど、、、

DCミニを盗んだ犯人は氷室だ!と気がついて敦子が氷室の家にいき、気配を感じて追いかけて行った先に現れた遊園地。その遊園地のメインキャラクターはロボットだった。

敦子は気配を感じて追いかけて行った末に遊園地にたどり着き、人形を追いかけていくわけだけど、それは結果夢の世界だったわけで。

一方、別の現実とされているシーンで、時田は、DCミニの開発中止を宣言され開発中の機械を廃棄しているとき、このロボットがバックプリントされたTシャツを着ていて、敦子はその遊園地の存在がリアルに存在することを想起する。

振り返ってみれば、敦子が日本人形を追いかけていくシーンの氷室の家の壁にはロボットが描かれているし、遊園地のメインキャラクターがそのロボットだったりする。

氷室も時田もこの遊園地が好きで意気投合したらしく、二人ともこのロボットが好きだったということがわかる。

氷室の部屋で知らぬうちに夢の世界へ連れて行かれてたどり着いた架空の遊園地が、実際に存在する場所であった。そして、それは氷室と時田が共通して好む遊園地であった。

というような、まぁ、、、だからなに?って話かもしれないけど「はーーー、そこ繋がるのね!」っていう瞬間が折々にある。

 

まぁ、その手のことはたくさんあります。「それってなんだかミステリー?」をなぜパプリカも言ったのかとか。

filmaga.filmarks.com

夢は願望や欲望の表出、だとするならば・・・

じっくり考えたい人は上記もぜひ読んでみてほしいおすすめの記事。

夢をテーマにしている映画ということで、フロイトユングの「夢」に関する研究を引用しながら考察されている。

フロイトは著書『夢判断』で、「夢とは個人の記憶から生まれ、無意識に選択される、願望や欲望の表出である」としました。それまでの夢や意識に関する定説に異を唱え、人間の心には無意識の領域があり、そこにこそ人間の本質があるとフロイトは発表したのです。

https://filmaga.filmarks.com/articles/2382/

僕はこれに実感を伴って個人的にそのとおりと思う。そう考えたときこの映画内で描かれる各キャラクターの夢のシーンについて「ああ、それがこのキャラクターの願望や希望なのね」と思うわけ。粉川警部は過去の自分に囚われて苛まれているように描かれていますが、裏を返せばそれは「取り戻すことのできない望み」ともいえると思う。

願望や欲望、他人のそれを共有する DCミニがもたらしたもの

素敵ですよねぇ。友達の夢を自分の夢みたいに見られるのって。同じ夢を一緒に。

上記は、時田がDCミニを開発した理由を粉川警部に漏らしているシーンのセリフ。

これに従うようにして、ストーリーはどんどんと他人の夢に誰かが入り込み、最終的には現実と夢とが混ざり合うところまでいくわけですが、それは結局のところそれぞれの欲望と願望、本音が入り混じった世界観が表現されているのだなぁと思った。

昨日見た夢今日の夢、浮かれ浮世の憂さ晴らし。
夢が成る成る、金のなる木を育てませ。
いいえ蕾のうちが花。そうそ、とどめて永遠に。
花もなければ身もならぬ。どうせないならなにもせぬ。
そんな不満を一票に、託して目玉をいれてよこの目だま。
誰が渡すかこの玉座。「我こそが皇帝なり。神が定めたのだ!」「わしはそんなこと定めておらん!」
神も仏も宗旨替え。うたげ浮世の憂さ晴らし。

パレードの様子を用いて表現されるこのシーンは人の欲望や願望や本音が、めいめいに表現されてるように思える。

実に爽快だ。私は生まれ変わったのだ。見ろ。私が立っている。私の足で立っている。完璧だ。今や夢も死の世界すら自在だ。いまこそ完全なる秩序のために、全ての秩序を回復するのだ。

理事長が黒い影のような状態になって現れるシーン。「見ろ。私が立っている。私の足で立っている」という言葉をきいて、そうだよなぁ、、、と思うわけです。

理事長は下半身が動かないのか車椅子で移動するキャラクター設定ですが、そういう人にとって、歩けるようになるということは何よりの願望であると思うわけです。理事長という立場があり、さらにDCミニをのっとって世界を自由に操れるようになった人間が、まっさきにその完璧さを実感するのが、歩けるようになったことだということは大変興味深いなぁ、、と思いながら観ていた。それだけの立場や権力を得た人の求めているものが、極めて個人的なものであるという点で。

DCミニの開発動機である「他人の夢を共有する」ということは、それ故に、例えば、敦子が素直になったり、粉川警部が過去を整理できたりするように、各々のささやかな願望や本音が共鳴し合って形成されて行く理想が一方でありながら、しかし、カオスだな、と。

単純に、複数人の願望、欲望、本音で一つの世界が構成されるとこうなるのか、とも思いながら、しかし、人は現実社会においてそれを潜めて、努めて、社会性を保持するために、道徳観や倫理観などを用いて制御しているとも言えるんだよなぁという感想を持った。

夢を現実にする、つまり、願望や欲望や本音、そうなりたいを実現するのに必要なのが『パプリカ』なのかも

上記でも書いた理事長が黒い影のような状態になって発したセリフを受けて、パプリカが発するセリフがある。

理事長『実に爽快だ。私は生まれ変わったのだ。見ろ、私が立っている。私の足で立っている。完璧だ。今や夢も死の世界すら自在だ。今こそ完全なる秩序のために、全ての欠如を回復するのだ』

パプリカ『いいこと言うじゃないの、暗黒大魔王。影には光、夢には現、死には生、男には、、、』

粉川警部&吉川所長『女?』

パプリカ『そこへ、足りないスパイスをひとふり』

粉川警部&吉川所長『パプリカぁ?』

パプリカ『ピンポン』

上記やり取りの中で、パプリカがスパイスであることは、その直前に、時田を正気に戻そうと近づいた敦子が、時田に「ごっくん」と食べられたシーンで、時田が発しているセリフに現れている。大好きな敦子を「ごっくん」した時田が発したセリフは以下。

芳しき脂肪分は至上のランチ。ごっくん。ややスパイスに不足。欠如はパプリカ?

劇中では、敦子とパプリカは同一人物で、それがどう使い分けられているのか、どういう風に敦子がパプリカになるのかわからないわけだけど、僕は、敦子の中に存在するもう一人の自分がパプリカであり、また、そうありたい自分でもあるのだと想像している。冷静沈着な敦子、天真爛漫なパプリカ。感情を抑えるように生きる敦子、感情に振り回されないパプリカ。例えば、そんな対比が僕の中に想像されます。

しつこいけど、夢が欲望や願望や本音を表出しているものだとして、「完全なる秩序」を自分の中に作るには、「影には光、夢には現、死には生、男には女」といった相反するものの間を埋める「パプリカ」つまり「足りないスパイスをひとふり」注ぐことが、夢を叶えるひとつの手段なのかもしれないと感じた。

ちなみに、そんな風に観て行くと、いろんな場面で、時田の意図せぬ発想を察知した敦子がそれを生かして事柄を作り上げて行く、二人三脚のような組み立てが多いし、その連続性の上にストーリーが成り立っているようにも見える。

氷室が犯人と思い込んでいたところ、思わずひょっとしたら彼も犠牲者かもしれないと気づき始めた敦子がそれを時田に伝えたとき、時田は「それってなんだかミステリー?」と発言する。それに対して敦子は呆れた風なそぶりを見せるわけだけど、しかし、直後に粉川警部のカウンセリングを行なっているパプリカが同じセリフを使う。

そういうのをみると、冷静沈着で責任感と道徳性や倫理性を大事に生きている敦子は、時田のその無邪気さを自分が扱う必要があると考えていながら、しかし心はその無邪気さに惹かれていると感じる部分もあったりする。それが上記の「それってミステリー?」に表れているような気もする。

この映画の冒頭、DCミニが盗まれた直後にエレベーターで時田と敦子が交わすセリフにこんなのがあって。

時田『でも、盗まれたのはあれだけどさ、またつくれば・・・』

敦子『あれが悪用されたらどうなるか、発明したあなたが一番よく知ってるでしょ?』

時田『ん、、、つくるのは僕だけど、どう使うかはあっちゃんの仕事だろ?』

敦子『ふぅ、、、その呼び方、やめて』

「つくるのは僕で、どう扱うかはあっちゃん」という時田に対し、反論をしないのは、呆れているからかはたまた納得しているからか。しかし、いずれにしても、このストーリー全体の底流にはそういう時田と敦子の信頼関係というのは間違いなく存在しているというのを感じる。

夢と現実、リアルと仮想

そのようにしてみていくと、寝ている間に見る「夢」も、将来を目指す「夢」も同じ言葉を使われているのは、その本質が、欲望や願望や本音というところに集約される気がしなくもない。

そう考えたら、夢と現実や、リアルと仮想というのは、実は紙一重な世界観なのかなぁ、という気もしてきた。

思えば叶うとか、行動すれば実現するとか、生きている時間の中で、いくつもの経験を積み重ねてレイヤーを厚くしていく中で、ふと閃きが舞い降りてくる瞬間があるという経験は、それなりの年齢になった人なら、誰でも大なり小なり経験したことがあるのではないかと思う。

この映画で、敦子が何度も覚醒されたと思ったのに未だそれが夢であり、レイヤーが厚くなっていってカオスを充実させていくことになるわけだけど、そんな雑多な物事があるからこそ、その中から閃きがふと舞い降りてくる、ということもある。

その「閃き」が「パプリカ」なのかもしれいないな、と。

粉川警部が2度目にパプリカに会ったとき、入口がネットだったわけですが、そのときパプリカはこう発言します。

「抑圧された意識が表出するって意味では、ネットも夢も、似てると思わない?」

1995年にインターネットが現れ、5Gの時代に突入するわけですが、その発展を支えているのは、確かに人間の「こうなったらいい」という欲望や願望のような気がする。大容量通信が可能になっていくにつれ、確実に、願望が仮想からリアルに近づいていってる気がしたし、今後は、もっともっと仮想とリアルの境目が曖昧になっていくのだろうなぁ、とも思った。

そして、それは、ある一定の倫理性や道徳性に担保されながら、しかし、法に触れさえしなければよいというギリギリのところで成り立っている部分もあるなぁ、という感想も持った。

解釈は色々会って良い、あたりまえだけど

とまぁ、だからなに?って話でしょうが、僕の感想。

取り扱っているテーマが非常に抽象的なものなので、この映画はきっと解釈が色々とわかれるのだろうと思います。

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