1953年4月6日刊行。
- バナナフィッシュにうってつけの日
- コネティカットのひょこひょこおじさん
- 対エスキモー戦争の前夜
- 笑い男
- 小舟のほとりで
- エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに
- 愛らしき口もと目は緑
- ド・ドーミエ=スミスの青の時代
- テディ
- 9篇の短編作が集められた短編集。
僕の感想は、ひとことで表すなら「謎」です。
「くっそわからん!」が正直な感想
僕はどこか「存在には意味がある」と考える癖があって、 常日頃出くわす物事に含まれる意味を考えてしまうところがあるんですよね。
けれど、この作品たち・・・くっそわからん!!!
とっても意地悪されてる気がする!
って思いながら読み進めた。
サリンジャーは何を言いたいわけ?
海外文学を日本語訳したものって、日本人が日本語で書いた小説と違って独特な言い回しが多い。それは英語の性質や英語を訳すということに起因してるんだと思うけど。
だから、そもそも海外文学の邦訳したものって、僕はちょっと読みにくいなーっていつも思うけど、それに輪をかけて、サリンジャーは、謎をぶっ込んでくる。
なんだ?これは何のメタファーなんだ?
なんて読み進めると、ちっとも進まない・・・
物語の前後関係を見失いがちになるくどくどしいほどの素敵な情景描写。
例えば、両親の反対を顧みず結婚をした女のイかれた男が女の子と話した後に自殺をして物語が突然幕を閉じる展開。
例えば、女子会トーク満載の中に忘れ得ぬひょこひょこおじさんの話と交錯するように架空の存在を大切にする少女、でもその存在は突然「死んだ」り。
この二つの「例えば」に「謎」を覚えた方は、ほぼほぼ「くっそわからん!」に陥る。
見出そうとすればするほど深い森の中に入り込んでしまう。
もう、これはググるしかない!!
なんだこれは?とネットを探りその意味を探ろうとすれば、
やれ、この9つの短編は、映画の中にもよく見受けられる、特に意味はないが、それがなければ性急すぎる物語になるため挟まれた情景描写であるから、意味を考えずにその景色を堪能するが吉
と謳うものもあれば、
必死にその意味を探ろうとして探りきれていないものが多かった。
「なるほどなぁ、そういう解釈なぁ、、、」と思うけど、しっくりこない。
ふと思い浮かぶ「存在」という言葉
内容は夢を見てるみたい。
夢って、突然よくわからない展開になったりするでしょう。
あの感覚。
でも、最後の2作品
ド・ドーミエ=スミスの青の時代
テディ
は比較的読み進めやすくって、感じいる要素があった。
で、その2篇を読み、一冊を通じて読み終えて、
ん、、、まてよ
これ、短編ひとつひとつに意味を見出すんじゃなくって、この9つ全体で成り立ってるのかもしれない
とふと思う。
サリンジャーは雑誌に短編作をたくさん発表したらしいけど、単行本として刊行されている短編集はこれだけらしいし。
そんな断片的な情報を無理やりくっつけてしまうくらい意味を渇望してる自分、笑汗
そう考えたら、ふと、なんとなく、おぼろげに、浮かんだ言葉。
「存在」
けど、それはとても頼りなくて。
でも、どの短編の背景にも「存在」が関わっているような気がして。
気がするだけだけど。
そして「意味を見出した」には、程遠い。
でも、ひとつ一つの短編、あるいはその物語に登場する人や出来事に「存在」が関わっているような気がする。
気がするだけだけど。
むうううううう。
サリンジャーおそるべし。
しかし、この意味不明な作品たちが半世紀以上も世界中で読み継がれているのはなぜなのか。単純に「人はわからないものに興味を惹かれる」というだけの話なのか。それとも、何かがここにあるのか。
無理やり感はいなめないけど、でも「存在」というのはそういうものなのかもしれないとも思う。
ひょっとしたら「存在」を考えさせてくれる存在。
9つのストーリーで出来上がった1つの物語。
そんな仮説を立てておいて、もう少しいろんな本に出会ってから、またこの本に会いにきたいと思う。