映画|ボヘミアン・ラプソディ

フレディーに共感した。

といったらおこがましいんだろう。僕は世界中の人々の心を動かしたこともないし、歴史に名を馳せたわけでもない。僕なんかは半端者なんだけどさ。

でも、とにかく、共感した。涙した。人ってそうなんだなぁ、と思った。それでいいんだなぁ、とも思った。

何も情報はありません。でも、ただで返すに忍びないので・・・

この記事は僕が感じた『ボヘミアン・ラプソディー』を約8500文字に渡って書いたものです。ということで、何か情報を期待してきている人はごめんなさい。しょうもない独善的な感想がだらだらと続きます。

でも、せっかくきてくれたのに、ただで返すのは忍びないので、いくつか。

ボヘミアン・ラプソディーのPV

YouTubeをググればすぐでてくるものだけど、これ、映画のタイトルになっているボヘミアン・ラプソディーの公式PV。日本では We are the Champion とか Don’t Stop Me Now みたいな有名感はないけど、実に本映画の主役ともいえるフレディー・マーキュリーを表しているような曲だと思う。

www.youtube.com

映画を観てからこの曲を聞き返すと感じるものが変わってくる。

ちなみに『ボヘミアン=放浪者』『ラプソディー=狂詩曲』だそうです。

映画と史実は違うよーって紹介してくれてるサイト

映画を観終わって「ところで、これは史実かしら?」と思う人は多いはず。

結論をいうとやっぱ違うところは多々あるようで。それを検証してくれてるサイト。

rollingstonejapan.com

メイキング映像と予告動画(公式)

www.youtube.com

2分程度のメイキング映像。グウィリム・リーは、ブライアン・メイからギターを直に教わったみたいですー。

www.youtube.com

観終わったばかりなのに、この映画予告をみたらまた観たくなる、笑

史実|LIVE AID後のフレディー

www.youtube.com

実際のLIVE AIDボヘミアンラプソディー内のLIVE AIDの比較動画

個人的にはこの動画がある意味感動でした。フレディー演じるラミ・マレック。あなた、どれだけ練習したの!ってくらい動きのタイミングが。そういう意味で感動もの。

 

では、グダグダと8500文字。

ボヘミアン・ラプソディ』をどの観点でみたか

誰にも受け入れらていなかったフレディーが、夜な夜な向かったライブハウスで出会ったバンドのボーカルに採用され、彼の突拍子もないアイデアに周りが振り回されながらも、それが形になっていき、世界にまたとないQueenというバンドが出来上がっていく。

という大枠のストーリーの中で、

僕の心がとっても入り込んでいったのは、家族やバンドメンバーや恋人との人間関係模様、フレディーの人格、それは孤独だったり、感性だったり、セクシャリティーだったり、信じることだったり、愛だったりが目まぐるしく駆け巡る映画。

というところ。

Queenというバンドがどんな風に大きくなっていったかに焦点を当てた観方とか、ストーリーとストーリーの間に入るクオリティーの高い音楽シーンをミュージカル風に観るとか、人によっていろんな観方があるだろうし、もちろん僕もそうした要素に心動かされもしたけれど、やっぱりテーマ性あるものとして受け取ったのは上記のことだったわけです。

印象に残ったシーン

居場所感を覚えられていなかったフレディーが自分の身の置き場を見つける

コンプレックス、厳格な父親との確執、学校をはじめとした世の中の評価基準に照らした自分の存在は「劣等生」で周りに受け入れてもらえていないと感じている。そういう孤独を抱えている。

けれど、自分には人とは違う何かがあるということを感じる一方、何もなしていない空虚さも覚えている。その中で、静かに自分を信じ、動き、自分の生きる場所を探している。そんな若かりしフレディー。

ヴォーカリストが脱退したことを知らないまま「スマイル」のバンドメンバーに自分を売り込みに行く。ちょうどヴォーカリストが脱退したことを知り『我が意を得たり』という表情を見せるのが印象的。

居場所感を得られたフレディー

「スマイル」に加入してから1年。次の動きに出る。

バンを売ってアルバム創りの資金にする。
スタジオを借り、エンジニアを雇い、レコーディングをする。
周りが「よかった」とするテイクを「くそだな」と納得しない。
「もう一度いい?」と何度も納得いくまでトライする。
音を左右に振って観たり、楽器という枠を超えた音を生かしたり、油絵を描くように音を重ねていったり、とにかく突き詰めていく。
そんな型破りなスタイル。言い出しっぺはいつもフレディーで非常識だ。

ロジャー・テイラーブライアン・メイも、その突拍子もない申し出にほとんどたじろぐ。

けれど、フレディーは自分を信じてる。いや、信じているというか「現状のままだったら、存在しない方がまし」くらいの感覚かもしれない。

そうして、フレディーの提案が形となったり意図が伝わったとき、ロジャーもブライアンも割と早い段階でそれを汲んでいく。そして、肉付けをしたり、フレディーひとりでは思いつかないようなことを足していく。

フレディーは、そうした関係に、今までになかった居場所感や仲間といった感覚を得ることができただろうと思う。

BBCでの当て振り出演のシーンの後、メアリーとの会話。

「大勢の前で歌う気分はどう?」
「皆が俺の歌を聴き、注目してると思うと、キーは絶対外せない。なりたいと思ってた人間になれる。何も怖くない。まるで君といる時みたいに」

こうしてフレディーは徐々にぼんやりとしていた自分が現実化されていくのを感じていたのだろうと思う。

自分は規格外な人間だと言う「孤独」

けれど、けして一体感を得られていたわけではなかっただろうとも思う。

自分と一体感を感じられる人
一体感は感じられないが理解を示してくれたり協力してくれたり同じ方向性を持って歩める人
自分をどうでも良いと考えている人
自分を批判する人

僕は人をそう分けて見てしまう癖がある。

人と違う感覚が自分にはあるという理解を自分に対してしている人ほど、人は孤独を感じるものだと思うし「一体感を感じられる人」の存在を感じにくい。

「スマイル」加入前と比較すれば、フレディーは居場所を感じていただろう。

とはいえ、新たな視点でものを投げかけたり、鍵となるポイントを提示するのが常に自分なのだし、ファッションセンス、世間に向き合う姿勢にはフレディー独特のものがあるのだから、「やはり自分は違う」という感覚は拭えなかっただろうと思う。

レコーディングも進み、A&Rが彼らの様子に注目した頃、フレディーはバンド名を『Queen』にしたいと考えた。

「新しいバンド名?」
「”女王陛下”の意味。規格外だろ。俺は誰より規格外だからね」

この言葉にその意識がうかがえる。

この世で自分がどういう存在か、フレディーがそれをどう感じているかが表現されていると思う。

こうした人と違う感覚の持ち主はそれがある限りこのあたりをグルグルと浮遊霊のように漂い続ける。

人と違う感覚を持つ自分、それを受け入れてもらえるかわからないという寂しい感覚、けどそれが自分なんだと自分を労る感覚がぐるぐると。

自分の信じるものを形にしたいという強い気持ちがある。それに同意してくれたり、認めてくれたりする人に囲まれることで、安心を覚える。

けれど、それは束の間の安心であって、すぐに自分はまた人と違う感覚を覚え孤独に陥ることを感覚的に知っているから、その安心は刹那的で決して自分の全てをそこに委ねることのできない自分もいる。それに寂しさを感じもするだろう。

だから、華々しい成功をし、人に囲まれて幸せそうに見えていたとしても、そうじゃない。

自分を無条件に差し出すことに躊躇いを覚えるとき、孤独を感じ、自分の内だけで考えこむ。それに不便さも感じるが、それがあるから人と違う自分でもある。

生き方はなかなか変えられない。

自分を自分たらしめるものは、自分に生まれた感覚を生かすことなのだとわかっているから、人がなんといおうと自分を貫いてしまう。

そして、また孤独になってしまう。

孤独な人間が繰り返す答の見えている自問

新しいアルバム創りの話がまとまり、レコーディングの地であるロックフィールド農場に到着したシーン。

メモを取っていたフレディーに旋律が走る。

何かが降りてきたというか、世界が開けたというか。

自分の内に向けて「これはなんだ、これか?いいのか?」と自問自答する。いつものやり方だ。

ほどなくして、籠もった内から湧き出る感情に笑みが溢れる。メモに書き留める。湧き出た感情に突き動かされた最初の笑みとは違う、満たされた笑みを浮かべる。「いいぞ」こうして自分をまた信じていく。

メアリーに自分がゲイであることを告白するシーン。

「すっと自問してたんだ。俺はバイセクシュアルだ」

自分のことをゲイと言わず、バイセクシュアルと表現する。これはフレディーのメアリーへの気遣いだろう。それが自覚的か無自覚かはわからない。自分が性的に男性に趣向があることを覚えてからたくさん自問したんだろうと思う。自分が心から愛しているメアリーの存在。そことは切り離されたように湧く男性への感情。

告白を受けたメアリーが薬指にはめた指輪を外そうとした。

フレディーは「はすずな、約束しただろう」とメアリーに迫る。

「私に何を望むの?」
「ほぼ すべて。君と生きていきたい」
「なぜ」
「信じ合ってるだろ それが俺たちにはすべて」

そう言われたメアリーは「これからの人生は大変よ」と部屋を出ていくんだけど、それを静かに涙しながら受け入れるフレディーはやっぱりわかってるんだなと思う。

「俺の運命の人 お前は俺を見つけた 俺の心を引き裂き 今お前は去っていく 愛しい人 分からないのか? 返してくれ 奪わないでくれ」

フレディーはどうなるかをわかってこの詞を綴ったのだろうと思う。

フレディーは全てありのままの自分を受け止めてくれる相手、そんなありのままの自分を認め自分が自分であれる存在を求めていたのだと思う。

ロックフィールド農場について間も無く、ポールにキスをされたシーンで「本当に?君は俺を分かってない。望みを投影している。」とフレディーはいうのだけれど、それはどこか自分がメアリーに対してしていることを覚えていたからかもしれない。

あの歌詞、この言葉。

それは全てがわかっているから出てくるものだし、希望でもある。

信じたい気持ちが「信じ合っているだろ それが俺たちのすべて」という言葉に現れていると思う。

どんな自分でも受け入れてもらいたいとう祈りに近い。

メアリーが部屋を出て行ったその時に流した涙は、その祈りが届かなかった悲しみかもしれない。やはり自分は孤独なのだとあたりが闇に包まれた感覚かもしれない。

深まる孤独。ささやかな繋がりを求める愛。

彼の信念は強い。

わかっているから、全てを受け入れる。
けれど、メアリーが大切だという気持ちは変えない。

約束したのに裏切られただなんてメアリーにそんなそぶりを見せることもない。メアリーにボーイフレンドができたとしても。指輪が左手の薬指から消えていたとしても。それは全て自分が生み出していることだとわかっているからだと思う。

バンドメンバーも結婚し子供ができていく。

成功していく中、一方で徐々に深まる孤独。

紛らすように刹那的な享楽に身を投じても孤独は消えることがない。

心の底で求めることとは裏腹に、自分を孤独に陥れている他者に恨みがましい気持ちを抱いていく。でも、わかってる。全ては自分がこういう人間だからこうなっているんだってことも。だから、責められもしないし、寂しいと声を上げていうこともできない。

メアリーの隣の建物に引っ越して、夜中、電話をかけた。ライトをつけることで繋がりをもつシーン。ささやかな、なんてささやかな求愛なんだろうと思う。人を集めて派手に騒いでもドラッグに溺れても快楽に身を投じても、フレディーにはこのささやかな繋がりに勝るものはなかっただろうと思う。

ジム・ハットンと初めてやり取りするシーンにもそれが窺い知れる。

「友達は皆帰った?」
「あいつらは友達じゃない 気晴らしさ」
「何からの?」
「何もしてない時間かな 追いやったはずの暗い闇がまた戻ってくるのが耐えられなくて」

そして、ジム・ハットンはフレディーに本当に必要なものを端的に示してくれる。

「本当の友達と過ごす 君には友達が必要だ」
「本当の君を見つけたら会おう」

孤独が生む、求めるものと裏腹な行動

孤独は敵だ。人を狂わせる。

CBSでのソロデビューを持ちかけたリードを首にした。ソロデビューの条件としてバンドの解散を挙げられたとき、フレディーは「裏切り者!」と激昂した。

そして、ポールと二人きりになった車内で「バンドは家族だ」と。

その一方で、自分の提案にロジャーが「クイーンの音じゃない」と反論したときに

Queen is watever I say it is.

「俺が『これ』と言えばなんでもクイーンなんだよ」と叫ぶ。

孤独、自分の尊厳の保持、何が大事で何を求めているかわかっているのに。

裏腹な行動。

しまいにはCBSとソロ契約を交わした。

リードからの申し出ではバンドの解散が条件になっていたけれど、バンドを続けながらのソロ活動と条件が変わっている。きっとフレディーはそこで家族を護ったつもりだったのだろう。自分にとっての家族を。自分にとって大事な存在を。

大事な存在だとわかっていても、そこにいて孤独を感じたり、喧嘩が耐えなかったり。そして、その孤独の隙間に入る混んでくるようにポールが甘い誘いを向けてくる。

CBSと契約したことの理由として現状に対する不満をいくつも上げた。

ブライアン・メイに「フレディー、俺らは家族だ」と言われ「違う!俺らはそんなんじゃない!」と答える。

「君には家族がいる。子供たち、奥さん。俺は何を得た?俺は何を持ってる?」

フレディーの心の叫びだと思う。

それに対してベーシストが「君は400万ドルを手にしたよね。たぶん君はそれで家族を買えるんじゃないかな」と静かに語る。

大事な存在だとわかっているのに
「俺はこれ以上妥協したくないんだ」
と口走る。

頭に来たロジャーが
「妥協だと?俺らがチャンスをやるまで、お前はヒースロー空港で働いていたよな?」
とぶつけてきたら
「だな、そして俺がいなかったら、お前は歯医者になってただろうよ。そして、お前はブライアン・メイ博士だな。ディーキー、、、お前はよくわからんな」
と売り言葉に買い言葉。

ロジャーに「お前がQueenを殺した」と言われては、
「いつかキスしてみたらどうだ?目覚めるかもしれないぞ」と返し、

ブライアンに「君には俺らが必要だ、フレディー 君が知っている以上に」と言われても、
「俺は誰も必要としていない」と返す。

そうして部屋を出ていく。自分の尊厳は自分で守るしかない。自分の居場所は音楽しかない。そうするしかない。

孤独を埋めるように享楽に溺れ、酒とドラッグで世界を歪めようとする。音楽に没頭しようとする。そうすればするほど孤独の闇は広がっていく。

その広がりを見ないようにすればするほど、自分の中に存在する闇がくっきりと輪郭を帯びていく。

気がつけたとき、人は強くなれる

そんな生活を送っているうちに、メアリーが不吉な夢を見たとフレディーのもとを訪れる。

メアリーに「一緒にいてくれ」と懇願する。メアリーに「それはできない。妊娠してるの」と告げられる。

そのときには限界だったのだろう。「どうして、そんな・・・」とメアリーの幸せを喜べない表現が口をつく。その言葉にショックを受けたメアリーは「あなたには関係ない」と告げる。

そこでポールが戻り、フレディーとメアリーのやりとりは終わり、メアリーは帰ろうと玄関口に向かう。フレディーは追いかける。

「そういえば不吉な夢を見たと心配してきてくれたんだった。その夢の内容は?」とメアリーに問う。「フレディーの声が失われた夢だった」と夢の内容を説明してメアリーはタクシーに向かう。

フレディーの目に浮かぶ涙、喉奥から溢れる唾液、高鳴る鼓動、上気する身体、考えるより先に自分が何を求め何を大事にしたかったかを自分が感じているシーンでとても印象的だった。

同時にポールが「お客に挨拶してくれよ。みんな会いたがってる」とフレディーに誘いかける。お前の居場所はこっちだろ?と言わんばかりに。いつものように。

けれど、フレディーは既に気がついてしまっていた。いや、見ないようにしてた自分が取り払われ、全身全霊が何を求めているか感じている瞬間だったのだろうと思う。

タクシーに向かうメアリーを追いかけ、閉まる車のドアを抑えてフレディーはあらためて「妊娠おめでとう」と声をかける。

I’m happy for you, Mary.

「怖いんだ」
「怖がる必要なんかない。たとえ、あなたがどんなであっても、あなたは愛されてる。私に、ブライアンに、ディーシーに、ロジャーに。あなたの家族に。十分じゃない。ここにいる人たちはあなたのことなんて気にしていない。ポールはあなたのことなんか何も思っちゃいない。フレディー、あなたの居場所はここじゃない。家に戻って。」

雨に打たれながらフレディーは「Home」と呟く。呟き視線を交わしながらメアリーのタクシーのドアをしめて送り出す。

直後にポールとの関係を切る。

「すべて俺のせいか?」と聞くポールに「違う、俺は自分を責めている」と応えるフレディーはやはり全てをわかってると思う。

信じることのできる人は強いと思う

バンドメンバーにこれまでを謝罪するシーンの「一人でやってみたが周りはみんないいなりだ。ロジャーの反抗、ブライアンのリライト、ディーシーの不満顔が俺には必要だ。みんなにとっても俺が必要だろう」という発言に愛を感じる。

LIVE AID出演前に実家に立ち寄りジム・ハットンを紹介しすぐに立ち去るとき。「ウェンブリーにいくんだ。アフリカの子供達を救う。誰も出演料は取らない。『善き思い、善き言葉、善き行』だ。父さんが言った通りだよ」と言ったその後、父に不意に抱きしめられる。目を閉じる。

そこからはLIVE AIDに向けたストーリーと当日の演奏。

もうそれはここまで長々と綴った全てが込められたもので演奏が始まってから終わるまで、僕は泣いた。

1975年にかかれた曲『ボヘミアン・ラプソディー

ボヘミアン・ラプソディー

世間の習慣など無視して放浪的な生活をする人の狂詩曲。

この曲は1975年に創られている。

フレディーはずっとわかっていながら止めることのできない歩みを進めて行ったのかもしれないと思う。

この歌詞の『僕』はフレディー自身なのだろうし、歌詞中にある Mama, I killed a man. だって自分を指しているのだろう。

僕にとっての『ボヘミアン・ラプソディー』とフレディー・マーキュリー

そうしてQueenの曲を一つずつ見返していくとフレディーは常に自分に問いかけている。

誰かのために作った歌も、それは自分への問いかけと結ばれているように感じる。

たくさんのサイトでこのボヘミアン・ラプソディーは史実と違うということが書かれている。だから、この映画を見て、これがQueenというバンド、フレディー・マーキュリーという人の背景にあるものと想像するのは間違いなのかもしれない。

しかも、想像はあくまで僕の中に存在するイメージであって、真実はフレディー・マーキュリー本人にすらわからないものだと思う。

ただ、というか、だから、というか。

僕にとってのボヘミアン・ラプソディーはそんな映画だったし、Queenもフレディー・マーキュリーも僕の中ではそのように存在している、という至って個人的な感想文。