本|『GIVE & TAKE』アダム・グラント

良書と名高い、組織心理学者アダム・グラントさんの『GIVE & TAKE』読了。

382ページの間、なんとまぁ楽しかったことか。

「ギバーになろう」と思う僕はテイカーかもしれない。むむむ。

『GIVE & TAKE|アダム・グラント』の概要は、サラタメさんか中田さんがわかりやすい。

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

 

ちなみに、著者のアダム・グラントさん、TEDでも語ってくれてます。どんな人が書いているか、ほら、喋り方とか風貌とかから感じることってあるでしょ。

 

【感想|その1】「ギバーになろう」と思っている自分はテイカーかもしれない、と思った話

読み進めていくうちに「ああ、成功するためにはこうしたらいいのね」なんて読み方をしている自分がいることに気がついた。動機はもともと違ったんだけど。

答え合わせをするように、自分の過去とこの本に書かれているケースを照らし合わせてた。でも、なんか、そういう読み方をしている自分に違和感を感じる。

ああ、そうか。僕は、テイカーかもしれない。

「自分が成功するためには」 「自分が人に認めてもらうためには」

と考えながら読んでいるうちは、テイカーを内包してる。それはテイカー的ギバーかもしれないし、ギバー的テイカーかもしれないけれど、どちらにしてもテイカーを内包してる。

イカーというのは、自分に利益を持ってこようとする「利己」的な思考を持つ人。

イカーが前提とする因果論理はこうなる。彼らにとっては、目的はあくまでも「テイク」にある。何でも自分中心に考え、自分の利益を得る手段としてのみ、相手に「ギブする」。裏を返せば、テイクという目的を達成する手段として有効だと考えれば、テイカーは実に積極的にギブすることもあるわけだ。 2p

やっぱり。

でも、意外とそういう人多いかもしれない。

僕はギバーになりたい、テイカーになんてなりたくない、だから、ギバーの特徴もテイカーの特徴もしっかり抑えて、日常生活に生かすんだ。なぜなら、自分は成功したいから。

そんな人。

はたと気づいた僕は2ページ目を読み返して我に帰りました。

どのタイプでもどんな関係でも、最終的にはタイトルにある通り「ギブ&テイク」になることに変わりはない。

しかし、ギバーとテイカーとマッチャーでは、「ギブ&テイク」にいたる筋道がまるで異なる。本書の三分類は、「ギブ&テイク」という仕事の場面でごく日常的に見られる相互作用に対して人間が持つ前提の違いに焦点を当てている。なぜ、どのように「ギブ&テイク」にいたるのか、という因果論理の違いに注目しているといってもよい。 2P

やべー、自分が成功するためにギバーになろうとするのって、テイカーの因果論理だし、なんならいっちゃんたちの悪い戦略的テイカーに気づいたらなってそう。こわこわ。

イカーをギバーに変えるには、まず、与えようという気にさせなければならない。そうすればいずれ、条件が整えば、テイカーは自分のことをギバーだと思うようになるだろう。371p

与えることを昇進のような外的な理由のせいにできる場合には、人が自分をギバーだと思うようにはならないという。だが、自分の選択によって繰り返し人に与えていると、与えることを自分の個性の一部として内面化するようになる。これが、「認知的不協和」の過程で起こる人もいる。p371

ギブすればギバーってわけじゃない。その行動の根元にある心理の問題だということ。

【感想|その2】一人の人格にギバーもマッチャーもテイカーもいるという話

1ページ目から始まる『監訳者のことば』には、すでに大雑把なギバー、マッチャー、テイカーの定義が書かれていて、

「ん?これって、絶対的なものではなく相対的なものなんじゃ?」

って思ってたら、早々にそんな文言にでくわした。

職場以外では、このタイプの行動をする人はざらにいる。イェール大学の心理学者、マーガレット・クラークが行なった調査によれば、親密な人間関係では大抵の人がギバーとして振舞うという。家族や友人に対しては、いつでも打算なしで相手の役に立とうとする。

あー、これってすっげーヒントじゃん、って思った。

本書を読み進めていけばわかるけど、アダム・グラントさんは5割いるとされているマッチャーに関する記述にそれほど時間を割いていない。マッチャーは「目には目を」だから与えれば与えてくれるわけだし。だから、与えなさいってことでしょう。

そうすると、問題は、ギバーが与えすぎて燃え尽きないようにするにはどうしたらいいか?「自己犠牲のギバー」にならないようにするにはどうしたらいいか?というセルフケアの問題と、テイカーに搾取されないためにはどうしたらいいか?という防衛措置の問題に絞られる。

つまり、ギバーが燃え尽きるのは、与えすぎたことよりも、与えたことでもたらされた影響を、前向きに認めてもらえていないことが原因なのである。
ギバーは、与えることに時間とエネルギーを注ぎ込みすぎるせいで燃え尽きるのではない。困っている人をうまく助けてやれないときに燃え尽きるのである。264p

つまり、テイカーとつき合うときには、マッチャーになればいいのだ。308p

中には父親や母親、親族などがテイカーで、それに苦しんでいる家庭もあるし、恋愛関係においてだって相手がテイカーであることも往々にしてあるから一概にはいえないけれど、そういう自分が大事だと思う人に対してしていることをイメージすればいいのかもしれない。損得抜きで相手のことを思って動く感覚。

でも、これって聖書に書いてあることだったりする。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイによる福音書22章37節〜)

【感想|その3】自分がどうあるべきか、という話

「疲れたな、こういう生き方」
「人に何かを与えても、『ありがとう』と言われても、満たされる気持ちがない。むしろ自分の時間が奪われただけな気がする」

そんな風に思ってたとき、この本に出会った。サブタイトルの方が強烈に入ってきた記憶がある。

「与える人」こそ成功する時代

「んな、アホな。じゃあ、この虚無感のようなものはいったいなんなんだ?」
「俺は与えていなかったってこと?それとも『成功』といわれるものを『成功』と感じられないってこと?それとも見えていない何かが間違っていたってこと?」

誰かや何かのためによかれと思って行動してきて、良い方向になったし、人にも感謝された。けど、それらが積み重なる度に、自分から何かが抜けていき、少しずつ空洞になっていく感覚があった。自分を切り売りしているような感覚。

自分のしたいことを常に横に置いて、誰かのために何かのために時間を注いできた。しまいには、横に置いておくと気になるから封印してみえなくもした。その結果、趣味だと思っていたものを「これって、趣味って言えるのかな」とか、好きだったものを好きといえなくなった。

「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカによる福音書6章38節〜)

ひょっとしたら、この文言の受け取りが間違っていたのかもしれない。「与えられること」つまり見返りを求めてこの文言を読み込んでしまっていた自分の問題だったのかもしれない。

因果論理の違いの話なのだとしたら「与えたら自分も与えられるからしよう」「与えたら自分も幸せになれるかもしれない」という理由で与えているうちは、返報性の原理の域を出ずに、よくてマッチャーだし、下手すれば戦略的テイカーで、だから満足感も豊かさも自分の中で得られないのかもしれない。

なんか、根本に必要なのは「愛」のような気がしてきた。思い返せば、大事な人だったり、見返りを抱かない人には、どれだけ与えても損をした気持ちにならない。感謝して欲しいなんて気持ちにもならない。言ってみれば、極めて独善的で「自分がされたら嬉しいこと」をしてたりする。もちろん、相手の迷惑にならないかに気をつけながら。

やばい。これはとても難しい。